絵本の真似び(まねび)

子どもが読んでいる本を紹介していきます。

「ろけっとこざる」はアニメ以上に、何もかもがめちゃくちゃになっていく‥教育は、自主性か?それとも導きか?

おねえちゃんのブーム「おさるのジョージ」シリーズの「ろけっとこざる」の紹介です。

うちのお姉ちゃんの「おさるのジョージ」ブームを片付けないと、なかなか次の絵本の紹介に行けません。この間もそれ以外の本も、当然あるのですが、気持ちとしてなかなか先にいきません。

というのも「おさるのジョージ」ブームが去ったときに、あらためてもう一度絵本紹介をするか、というのが自分としてはあやしいからです。

 

「おさるのジョージ」に勝てるのか?恐竜とディズニー!

このゴールデンウィークでは、「おさるのジョージ」ブームを揺るがす、ふたつの出来事がありました。

ひとつは恐竜ブームの到来です。そもそも恐竜は結構好きだったのですが、前回の記事の通り、博物館をふたつ訪れ、フィギュアを買い、図鑑を買ったものだから、テレビをつければ「ジョージみたい。」それも「ぶたひゃっぴき」「ひとりおーぺーらー」「とんでる」「チャリーン」の「ジョージ」と、テレビで放映された最新話指定で、1週間それを見るという彼女に、「恐竜のDVD」という選択が入りました。

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おかげで、好きなキャラクターにドラえもんが仲間入り。ドラキッズはやっているので、最初から好きでもいいんですが、彼女にとってドラえもんは「恐竜を説明してくれる人」のようで、最近は好きなようです。

もうひとつはディズニーです。いとこから、おさがりのかわいらしいミニーちゃんのふりふりひらひらの洋服をいただきました。それが大のお気に入りで、ずっと着ているんです。そうすると、急にミニーちゃんが大好きに。スーパーでペッツのミニーちゃんみつければ買うし。

ここに力を貸してくれたのが、オカイディです。

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オカイディが楽天で買えるお店

 ゴールデンウィーク中にたちよった子供服ですが、そこで、絵が変わるTシャツをゲットしたんですね。言葉では説明しにくいんですけど、きらきらの小さな丸いパーツがたくさんついていて、その向きが上になるか下になるかで、違う絵が出て来るんです。うまく説明できないですね。

彼女はまず、女の子用のところで、貝の絵をゲット。そうです。アリエルだからです。そして、もう一枚は、男の子用のところで、恐竜をゲット。

この2枚とミニーちゃんのおさがりによって、最近の外出は必ずしもジョージだけでなく、違う服も着るようになりました。

そんなこともありまして、テレビはジョージに加えて恐竜、服は、ジョージに加えて恐竜とミニーちゃんというローテーションになっております。

ジョージブームが衰えたのかというと、そうではないような気がしますが、去る前にとりあえず書いておきたいと思うんです。

「ろけっとこざる」はやることがひどすぎて、救いがない…

さて、「ろけっとこざる」です。「ひとまねこざる」シリーズの中の一冊で、ジョージが宇宙に行くんですね。

※大きい画像は、絵本ナビの作品紹介へのリンクです。

 この話、スタートがアニメにもされている、カーペットを汚す話なんですね。アニメでは黄色い帽子のおじさんが買ってきたばかりのカーペットに、ジュースをこぼして、がんばって洗おうとするわけです。そこから大騒動になっていくんです。

この本では、ペンで汚すことから始まります。

アニメでは、まあ、とんでもないことばかりするとはいえ、一応、カーペットも家もピカピカにはなるし、ポンプも返しにいくし、まあ解決と言えば解決なんですが…。

原作はなかなかです。

部屋を水浸しにして、ポンプを借りるために、豚を逃がし、そして牛の力を借りて、持っていくときに「おひゃくしょうさん」に見つかって逃げ出し、博物館にたどりつきます。

恐竜の展示にある椰子の実がとりたくなって、まあ、これも模型なんですけど、恐竜の展示をめちゃくちゃにします。

つかまって、動物園に返されそうになるときに、手紙が届いて、小さな小型ロケットに乗ることになって、みんなが心配する中、脱出して地球に戻って、「うちゅうざる」1号になるという、書いていても、どういう脈絡があるんだ!とつっこみたくなる展開となっております。

最後はハッピーエンド的で、ジョージのおうちの水を掻きだしてくれていたというとなりのおばさんまで喜んでくれるという展開ですから、いいんですけど、とにかく、ジョージの知りたがりによって、めちゃくちゃになりつつ、みんながジョージの知りたがりを許容する、いや、喜んでいるという展開になるわけです。

 

子どもの好奇心をどのように育てていくべきか?自主性か、それとも「導き」か?

ここのところ、ジョージに触れるといつも同じようなことを書いていますね。「CURIOUS」なジョージ、「知りたがり」なジョージによって、必ず騒動が起きるわけです。アメリカだって、決してさまざまな騒動を容認しているわけでなく、みんな困っているわけですし、絵本ではいっつも追いかけられてつかまりそうになっているわけですから、そこに寛容なわけではないです。

でも、その源となる「好奇心」を、かなり認めていて、そこを大事にするということが徹底されているわけですね。その部分を伸ばすためには、多少のことは仕方がない。

言葉と観点を変えれば、それは「個人」の尊重でもあります。だから、「おさるのジョージ」では、ジョージが怒られるシーンがあっても、黄色い帽子のおじさんがジョージのしたことで怒られるシーンはないんですね。

たぶん、アメリカ的な感覚だと、当然の話になっていて、二人は別人格であり、そして、その好奇心、想像力を最大限尊重していく、つまり、個性を伸ばそうという教育になるわけですね。

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言葉だけで対立させると、ここに当たるのは、「社会」であり、「協調性」であり、「常識」ですね。日本を含めた東洋では、教育は、「かくあるべき」ものであり、「型にはめこむ」ことであるのかもしれません。

ただし、日本の場合を書いておくと、この「型のはめこみ」はおそらく明治から高度成長にかけて強化されたものであって、古来からそうであるかといえば、おそらくそうではないと思います。

このブログのタイトル「学び=真似び」であることからも、そこまで「かくあるべき」ということはなかったのではないかと思います。でも、明治以前にさかのぼっても、家や村を中心とした「共同体意識」は強かったでしょうから、いわゆる同調圧力のようなものは自然と日本にはあったのではないかとも思います。

だからこそ、明治以降の、ある種のつめこみ的な教育は日本にマッチしてきたわけです。

そもそも教育とは、社会に順応させる一面が多かれ少なかれ存在します。「個性」的であることさえも、「社会」の「常識」によって、「個性」かどうか決まるわけですし、ルールとかモラルとかになってくれば、どんなにアメリカが自由でも、平気で法をおかして自由をさけばれたらいけないわけですから。

何が言いたいかというと、どんなに自由でも、どんなに「導き」から逃げ出しても、広義の意味での「社会」には属していなければいけないわけで、それはアメリカでも同じなんですが、日本のような、もともと同調圧力が強いところでは、「自由」と「導き」が、なんとなく完全に対立項のように語られるわけですね。

まあ、中国の教育みたいに、スパルタ色が強くなってくると、もう少し本当は見えやすくなります。

自主性と「褒め」を中心に教育するか、強制=導きと「ムチ」を中心に教育するか、ですから。

両方、教育であることは間違いないんで。

でも、日本では、「自由にやらせたら、子どもは育たたない」とか「そこまでやって学力やスポーツを伸ばす必要はない」とか、そんな議論になります。たぶん、教育の手法の問題が、社会の有り様とか同調圧力とかとごっちゃになるからです。

 

ジョージの「知りたがり」「個性」は、「社会」によって支えられる。家族ではなく。

私は何度か書いてきましたが、ここに一番の問題点があるんだと思います。

日本では、おそらく従来の共同体意識が非常に強かったために、共同体意識が非常に嫌われる傾向にあります。これはある意味では当然のことで、個人の尊重とか自由とかを考えるなら、当たり前のことと言えます。

ジョージの世界では、これが当たり前に表現されているわけです。個人の自由とか、想像力とか、好奇心に最大の価値がある。そうなると、家族、特に親だって、ここには入り込めない。家族とはいえ、別人格ですからね。地域とか、町とかっていう概念がどれだけあるかは今ひとつ私にはわかりませんが、少なくとも、同じ価値観を持って、「村のために身を捧ぐ」というような感覚はないでしょう。個人が優先ですからね。

ところが、こういう社会において、社会を維持しようとすると、ボランティア的な助け合いが不可欠になる。そういう意味での、町という共同体とか、国とかいう共同体に参加しているという意識はもしかしたら、日本より強いのではないでしょうか。つまり、自分がやらなければいけない、ということですね。

日本では、個人の意識が当然強く叫ばれる。いまだに校則なんかが問題になりますが、無意味なものはやめればいい。みんなそう思っているはずなのに、どうしてやめられないかというのは、結局、「親」とか「家族」という概念が残るからではないかと、ジョージを見て強く思うんです。

日本は、結局どこまでいっても、「親」の責任を問う。裏を返せば、個人を求めて、他者と関わらないようにして、その「責任」は、「親」と自分の関わりのない「行政」に負わせている。

ある意味では、社会との関わりは、税金を払う程度にとどめて、あとは「親」と「国」にがんばってもらう、ということなんですよね。

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もし、本当に、個人の自由を問うなら、親と子どもは別人格で親が責任を負う必要はないし、その子どもが関わる社会は、自分が関わる社会なのだから一定の関わりが必要となる。これがアメリカ的な地域であり、政治参加であり、ボランティア意識なんじゃないでしょうか。「個人」が尊重されるからこそ、「個人」と「個人」として関わりが必要になる。

日本だと、結局「親」か「国」。新幹線で子どもが騒いでも「親」、通学途中で子どもが騒げば「学校」ですよね。

無意味な校則だって、結局は、「じゃあ、変な奴が出てきて、周りが眉をひそめたら、誰のせいにするんだ」って考えれば、そんなの「学校」か「親」に責任負わせますよね?「個人」を尊重するから、そうなれば自由度があがるわけで、それでも社会との関わりがあるんだから、個人として本当は関わるべきなんですね。

 でも、そんなの関わりになりたくないから、「学校」のせい。「親」だって、ほっといたら「親の育て方」にされちゃうから、できるだけ「しつけ」に近いことまで、学校でやってほしい。この議論だっておかしいです。日本では「学校がしつけをするのか、お親がしつけをするのか」でしょ?「地域」がない。じゃあ、学校教育に関わらず、子どもを作らなければ、「しつけ」とは無縁。だから、電車で子どもが泣くとめくじらを立てるわけです。自分には関係のない話ですから。

でもね、「ろけっとこざる」では、信じられないようなめちゃくちゃなことが書かれつつ、知らないうちに、となりのおばさんがジョージの家の水を掻き出し、そしてジョージが無事に地球に帰ってきたことを喜ぶ様子が描かれるわけです。

「参加」ですよね。

私は別に、アメリカに憧れたりはしません。アメリカがジョージの世界みたいに、みんながボランティア意識を持っていて、あるいはそのことでうまく行っているとも思わないし。

でも、こうやって、「親」とか「国」とか「公的機関」とかに責任をなすりつけて、自分は安全地帯にいることをいつまで続けるんだろうか、と思うと、暗くなります。

子育ては「親」の責任にする。

あるいは「学校」の責任にする。

残念ながら、さまざまな問題も、この二つで議論が始まる。他人の子どもであっても、自分の地域で、社会とのつながりの中で、自由を認めるからこそ、対等な他者として、自分自身が向き合う、という視点で語られることはないように感じます。

どんなに新しい視点で、自由や教育が語られていても、「親」が「公的機関」「制度」かになる。だとすれば、「親」や「公的機関」は追い込まれて責任を負うばかりです。

日本は、たぶん共同体意識が強いから、同調圧力も意味もなく強い。いい面としては、本質的な意味でのボランティア意識はすごくあって、だから災害が起きてもみんなで助け合える。

でも、平時では、この助け合い意識は、下手をすれば、「個人の自由」の敵で、「しがらみ」で、「同調圧力」なんですよね。だから、日本ではボランティアが「偽善」かどうかまで議論されちゃう。個人の対義語になっているからです。

もちろん、この共同体意識と同調圧力は間違いなく、個人や自由の敵で、もっともっと多様性を認めないといけない。でも、そうなったら、その多様性と向き合うのは、個人と個人であって、向き合う人の前に、勝手に「親」とか「公的機関」とかをおいて、安全地帯に行ってはいけない。でも、現状は、「自由はほしいから、もっと多様性にあふれてほしいし、そういう権利を認めてほしいけど、自分はそういう人と出会っちゃうと面倒だから、出会わないですむように、親や公的機関はちゃんとしろよ、あるいは俺の前にだけはくるなよ」という話になってしまうわけです。

だから、ある意味で、議論をしているようで、議論になっていない。大体意見は、

  1. 他人の勝手。自分は関わらない。
  2. 関わるかもしれないから、誰かにちゃんとしてほしい。親か公的機関。

のどっちかですから、ベースが同じなんですよね。要は「直接かかわる気はない」と。親と公的機関にちゃんとしろ、関われ、っていうなら、個人の自由なんて認めていないんだから、結局は。

もし、本当に個人の世の中になっているなら、「親」に文句を言う前に、あなたが個人として向き合って、さとしてあげればいい。それが自由と多様性の中での身の振る舞い。自分が正しいとは限らないけれど、違う人とコミュニケーションをとりながら、つまり、摩擦を起こしながら、生きていくべきです。

これ、まだ書いていなかったな…。国語のブログで異文化理解の話を書かなくちゃ。

 

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というような現代文的な深いところを、「おさるのジョージ」によって、日々学んでおります。いやあ、ためになるもんだなあ。

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