絵本の真似び(まねび)

子どもが読んでいる本を紹介していきます。

kodomoe2月号は、「おうち遊び」。子育ては「遊び」がすべて。

kodomoe2月号を買いました。

今日はkodomoe2月号から「遊び」のお話。

本屋に行って絵本を買う傍ら、僕ら用に、kodomoe2月号を買いました。

特集は「おうち遊び」。

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なんとなくそこに惹かれて買ってしまいました。というわけで、今日はそんなお話。

 

「おうち遊び」がこどものすべて。

さて、kodomoeの今回の特集は「おうち遊び」。

いつもは、付録の内容から買うか、買わないかを決めるのですが、今回はちょっと中身に興味を惹かれて、買ってしまいました。

考えてみればわかりますが、子どもにとって、遊びがすべて。

すべてが遊びです。

うちの1才の弟は、まだほとんど話せません。

はっきりしゃべるのは「パイパイ」。死活問題なんでしょう。そして「バイバイ」。似ているからでしょう。

あとは、

「ドッジョ~」「アッチュイ」「オッギ~」「チョッダ~」ぐらい。

あとは泣くことと「ウン」、そして「首を横にふる」、さらには、地面に倒れこんでアピール、あたりでコミュニケーションをとっています。

よく、「泣くのが仕事だから」といいますが、泣くことが伝える重要な手段なわけで、泣けなかったら大変なこと。

だから、子どもが泣くのがいけないように感じるのはたぶん間違っていて、子どもが泣くということは、子どもが主張しているということでしょう。

子どもが泣かないということは、たぶん、お父さん、お母さんが優秀で、先取りして伝えなくてもいい状況を作っているからで、そうなると、子どもの伝える能力は果たして大丈夫か、なんて思ったりします。

逆に、子どもが泣くことに対して、「何もしない」「無視」という状況になっていると、子どもは「泣いてもむだだ」という判断をしだす可能性もありそうです。

というわけで、言葉のない子どもにとって、「泣く」といくのは、コミュニケーションの大きな要素であるはずです。

「遊び」というのは、重要というより、新しい世界に向き合っている子どもにとっては、おそらくすべてが「遊び」と変わらない。

だから、「遊び」という定義によって、「遊びでないもの」というのが生まれてしまうとちょっと厄介かもしれません。

彼らは、ありとあらゆる新しい物と向かい合い、あるいは新しく出会った物がまた目の前に現れるという現象に向かいあい、体を使い、感覚を使い、知性を使い、ありとあらゆるもので遊んでいるわけです。食べることも、歩くことも、運動も、読書も、指先を使うことも。

だから、こういう本を読んでみると、「うちの子がやらないようなこと」、そしてたいていそれは「親である自分がやってあげていないこと」であったりするんですけど、それが何か気づくきっかけになるような気がして、惹かれてしまうんですね。

 

習い事も、勉強も、遊びかどうかが大事。

「遊び」の定義が、楽しいことや自分からすること、であるとした場合、「やらせる」というものでないことが大事です。

好奇心、ということかもしれません。

うちの場合、習い事は、お姉ちゃんが、幼児教室(ドラキッズ)、水泳、英会話。弟が幼児教室(KUMON)、水泳といったところ。

親としては、当然「やらせる」ものであることは間違いないわけですが、これがどれだけ「遊び」であるかが大事なんだろうと思います。

こどもにとって、字が読めたり、書けたりすることも、数が数えられることも、走れることも泳げることも、歌えることも踊れることも、所詮、みんな遊び。

楽しいか、ほめられるか。

それこそ、パジャマが着られるかどうかだって遊びでしかないし、トイレに座ってすることだって遊びかもしれない。

おねえちゃんは、ここのところ、ディズニーのプリンセスパジャマ3着を着まわしているわけですが、ふと写った「おかあさんといっしょ」で、何の気なしに「あの子、ボタンちゃんとやってるね」ってつぶやいた昨日の夜は、突然、「ボタンのあるパジャマ着たい」ってお母さんに言ってましたからね。

自分がおもしろいと思うものが遊び。でも、みんなから「すごいね」「じょうずだね」って言われるものもやりたいし、他の人ができているものも真似してやりたい。おもしろいと思うモノだって、できるようになったとか、他の人とおなじようにできたとか、そういうものなんだろうな、と。

もちろん、この裏側には、苦手なものはやりたくない、ということがきっとあって、それも、「他人との比較」だから、厄介だとは思いますけどね。

というわけで、習い事もいかに「遊び」であり続けるかが大事だと思っています。

たとえば、KUMONで弟がもらってくる宿題のプリントがあります。あるいは、買ってるカードとか。字とか、四字熟語とか、俳句とか。

ああいうのって、親としては「やらせたい」「やってほしい」わけですけど、そのためには、それが楽しくなくちゃいけない。だから、どんな風に遊んでも仕方ないし、そもそも楽しいものなら、親がやりたがらないといけない。

取り合いになるようなものにならないと。

不思議なもので、誰かが楽しそうにやりだすと、みんなでそれを取り合ってケンカしたりするんですよね。

間もなく2才になろうとする弟は、当然、鉛筆でしっかりと線を引く練習なんてできるわけもなく、ただひたすら適当にぐるぐると書いています。たぶん、本人は名前を書いたり、字を書いたりしているつもりらしいんですけどね。

もちろん、スポーツや音楽がそうであるように、競技や成績と向き合うようになったときには、楽しいだけではだめで、辛くても耐えなくちゃいけないですから、 「楽しい」だけが大事な価値観じゃないけど、それはまだもう少し先の話です。

まさに、すべてが遊び、すべてが好奇心である時期なわけで。この時期に、変に「勉強」にしてしまうのは、むしろもったいないことのような気がします。

おねえちゃんの水泳は、今、クロールと格闘中。もちろん、「練習」ではあるんですが、本人は「クロール」を練習していることが楽しくて仕方ないようで、一生懸命取り組んでいます。

私と自主練習で、市外の公共プールに行くこともしばしば。まあ、そうなると練習にはなりません。ひたすら遊びますが、まだ競技として向き合う段階ではないですから、楽しく泳げるようになって、自信を持ってくれればいいなと思います。

そうそう、kodomoeの特集ですが、体を使った遊びや、いらなくなったものからおもちゃを作ったりする遊びとかを扱っていました。工作は二人とも好きだし、ちょっとチャレンジしたいなと思います。

 

付録は、「きょうりゅうのずかん」と「ノラネコぐんだんシール&ブック」

いつもの付録は「きょうりゅうのずかん」と「ノラネコぐんだんシール&ブック」でした。お姉ちゃんは恐竜かな、と思っていたんですが、買ってきた瞬間から、ノラネコぐんだんの方を遊びだしていました。

さすが、遊びの特集。

あっという間にお姉ちゃんを虜に。

こうやって、貼ったり、はがしたりしながら、想像力を働かせるんでしょうね。

黄色い帽子のおじさんが、ジョージに「持ち前の想像力を使ったんでしょう」なんていうのを思い出します。

要は、どう遊ぶかなんて、まかせてしまえば買ってに遊んでくれるわけです。

どうしても、何かやらせたかったら、教えるんじゃなくて、こっちが楽しそうに、やってみせればいい。

そうすれば、真似が始まってくるわけで…。

なかなか勉強になりますね。

かくいう私は、本を読んだり、ストーリーを作ったりするのは好きだから、子どもたちがどんどんそういう力をつけているような気がする一方で、数字とか計算とかあんまりしないから、数学はあんまり好きそうじゃないし、英語だって習いにいっている以外はあんまりやってないかも…。

だって、親が英語使わないからね…。

反省します…。