小学校1年生で読み聞かせに参加して、徐々に「読み聞かせ」にチャレンジしたくなったというお話です。
さて、なんとなく興味関心と流れから、娘の小学校で読み聞かせボランティアを続けてきまして、徐々に本選びに苦戦しはじめました。
まず、教室で読み聞かせをする関係で、どうしても小さい本は苦しい。みんなが教室の前に来てもらえばいいんだけれど、机を動かすのも大変だろうし、そういうスタイルなわけだから、あんまりこっちの都合でくずすのもどうかと思ったり。
となると、大判の絵本、読み聞かせ用のすごく大きいやつ、ということになりますが、いちいち図書館で借りて、返して…というのもちょっと手間だし、大判の絵本てそもそも名作だから、きっと読んだことがあるだろうなというのも問題。
というわけで、できるだけ大きめの本で、しかもみんながあまり読んだことのなさそうな、新しめ、もっと言っちゃうと新作を探す感じになります。
これにも結構限界があって、なかなかいい本を探しきれない。
まあ、探すのも楽しいから、これはこれでいいんだけれど。
というわけで、ふと思うのが完全読み聞かせができないかなと。
このブログのタイトルに矛盾するようですが、絵本といっても、だんだん絵の役割が小さいもの、つまりお話の面白さだけでもっていけるもの、もっと言うと、本来の読み聞かせに近い作品を探したくなってきたわけです。
そうなれば、私の好きな宮沢賢治。
なんていう考えがだんだん頭の中を占めてくるわけですね。
というわけで、私の読み聞かせはひとつの方向として「読み聞かせ」へのチャレンジ!という形になってきたわけです。
で、そのチャレンジの話はおいといて、今日は本を読むことの効能のお話です。
そもそも、本を読むという行為はどういうものなのか?
もちろん、お話の面白さ、感動などといった心の動き、あるいはテーマや主張など伝えたいことなどなど、さまざまなことがあげられると思います。
しかし、「本」というものに限定していくと、ストーリーであるとか、テーマであるとかは他の媒体(メディア)でも同じ効能であるような気がします。なんなら、アニメやドラマで与えたほうがよりわかりやすくリアルに伝わるのかもしれません。
「本」としての特性。
それは、「字」を読むこと。
もっと正確にかくなら、文字や言葉から映像を広げていくこと。
これが本というメディアから得られる、得がたい経験です。
文字や言葉から映像を頭の中に浮かべていく。コトバをもとにして、登場人物や舞台があらわれ、そこで物語が展開していく…。
こういう心の動き、頭の動きが、本を読むことの意味だと思っています。
もっと言えば、他者をわかろうとする心の動き。コトバを元にして、自分がわかろうと努力すること。
だから、本を読むことは他者理解の大事な一歩です。他者に自分が近づいて行く行為です。
でも、アニメや映画は、むしろ全部わかるように説明してくれる。時には勝手に感動的な音楽をつけたり、恐怖を煽るような音楽をつけたりさえする。
だから、本を読まずに、そういうメディアばかりに慣れてしまうと、相手がわかりやすく説明する義務を負う。もっというと、わかりにくければ、それはわからない自分の問題でなく、わかりにくい相手が悪いと考えるような思考につながっていきます。
とはいえ、コトバを映像にするのは難しい。
というか、そもそも知らないコトバは映像にできないし、映像がない状態でコトバをあたえられても、新しいコトバを獲得できない。
だから、補助的に「絵」が必要です。
そう、絵本が子どもたちに喜ばれるのは、絵、イメージがある状態で、その物の名前や行為の名前が与えられることで、新しい言語や経験を獲得できるわけですね。
しかし、あるところまできたら、そのもう一歩先、つまり、コトバだけの状態からイメージを展開させるようにしたい。
その一歩もちょっとした壁です。
だから、「読み聞かせ」。そこには、感情や抑揚があって、登場人物の声音を変えることだってできる。聞いている子どもたちの様子を見ながら、難しいコトバがあったら、その説明をちょっと加えることもできる。
それが、読み聞かせの意味です。
娘の小学校では、朝の読み聞かせボランティアが4年生まであるので、本来焦る必要はまったくないのですが、やってみると、本がなかなか見つからないという別の理由から、ふいに、本格的な読み聞かせをやってみたくなったのでした。
というわけで、実際、どうだったのかという話は、また次回以降の話としたいと思います。
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