絵本の真似び(まねび)

子どもが読んでいる本を紹介していきます。

「私の未来予想図」子育てをしながら考えること

今日は、お題キャンペーンにのっかりまして、「私の未来予想図」について、考えてみたいと思います。

 

子育てと人生百年時代

どこで書こうかと思いましたが、結局この「絵本の真似び」で書くことにしました。というのも、やっぱり、これからの人生と考えると、「子育て」が切り離せないような気がしたからです。

子どもが生まれてから、できるだけ早く仕事をきりあげて帰るようにはなりましたし、休みにクラブ活動を入れるのもほどほどにしようと考えるようになりました。

それは、ある意味で、自分の人生を考えるきっかけのような気がします。

もしかしたら、普通は子育てと仕事がぶつかってくるようになって、仕事をしている自分らしさとボランティア的な自己犠牲的人生の葛藤があるのかもしれませんが、それが普通かどうかはさておき、子どもが生まれたことにより、よりまっとうな自分を見つめることになっているような気がします。

仕事をしていく先に何があるのか?確かにやりがいもあるし、必要としてくれている部分ではあるけれど、この先に何があるのか?

自分のやっている仕事は、自分の満足なのか、それとも相手に必要なことを与えているのか?

不思議なもので、子育てに関われば関わるほど、「自分」というものが見えてくるような気がします。

これは、私をふくめた男性がやっぱり、どんなにかかわっているつもりでも、子育てに関わっていないからこそ、感じることかもしれません。

自分のいるべき場所、必要とする場所、される場所…そういったものが、必ずしも仕事である必要はないわけだし、仮に仕事であったにしても、今ここにいるべき場所に過剰に頼る必要はないわけだし…

ふと考えれば、人生100年時代だと言われます。定年してから、下手すれば何十年も人生が続くわけで、そう考えるとその場所、その場所で、生きがいを見つけられるような、軽やかな身のふるまいが求められるわけで、定年で隠居する時代でなく、まだまだ新たな場所を探すことが求められる時代が来ちゃってるわけですね。

だからといって、「子育て」にのめりこむわけにもいきません。あっという間に、子どもの自立はやってくるわけで、背中を見せるような、身のこなしができるといいなあ、と思うわけですね。

人生100年も続くとすると、同じことをずっとやってるわけにもいかないし、同じ人をずっとあてにしているわけにもいかないし、でも、どこかで自分が何かに根差している感覚がないときっと大変な気もするし…

それって何なんだろうな、と思います。仕事でもなく、家庭でもなく、だからといって、趣味でもなく…いろいろなものに根差しながら、とにかくいろいろな場所で新しいものを求めるような、そんな人生はどうやったらおくれるんだろうな、と思います。

 

ピカソと伊能忠敬の話と私の未来

「国語の真似び」にアイデンティティの話を一度書きました。

www.kokugo-manebi.tokyo

 そういう風に、「私は常に私なのだ」という認識ができあがると、特別な何かを「私らしさ」と求めなくても、「何をやっても私は私なのだ」とか、「未来の私は、現在の私がこれから作り上げるものなのだ」とかいう話になりますよね。 つまり、自分らしさとして、「特別な何か」が逆に必要なくなるんです。だって、そもそも「私は私」なんですから。

 鷲田清一さんの本の中にあったふたつの話を使わせてもらいます。 伊能忠敬は、60過ぎてから、あの日本地図を作り上げるわけです。商家としての成功をなかば捨てて、新たなチャレンジを始める。でも、そのチャレンジは、60まで生きた伊能忠敬のすべての経験があってできることなわけですね。チャレンジをする、地図を作り上げる基礎的な素養は、過去の伊能忠敬が作ったもの。そして、地図作りという未知のことを将来可能にしていくのは、現在の伊能忠敬のチャレンジ。 そう考えれば、私たちは、常に何かを捨てて新しいものにチャレンジができる。そのチャレンジの下地になるのは、過去の私。そして現在の私が未来の私を自由に作る。 わくわくしません?

 ピカソは、画商に自分の作品の贋作チェックを頼まれます。でも、自分の描いた絵までぽいぽい捨てていく。画商は慌てていうんです。「それはあなたが描いた絵だ。私が見ていたんだから、間違いない。」ピカソはそれに対して「そのピカソはピカソではない。」 格好いいですよね。昔のピカソは確かに描いたかもしれないが、現在のピカソはそんな絵は自分の作品として認めない。 そんなことでしょう。

 わたしがわたしである以上、過去の自分にしばられる必要はない。でも、逆にいえば、過去の私は、必ず私の中に根ざしている。 アイデンティティも何も、最初から、私は私であるんですね。

読むだけで、現代文(国語)の成績をあげよう!その1「私(自己)とアイデンティティ」 - 国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

 人生100年続いていくとすれば、今まで自分が持っていたものに固執するんじゃなくて、さっと捨てて、次のものに進むようなそんな感覚がほしいなあ、と思うんですよね。

でも、捨てて捨てて捨てた先に、自分がぽつんといる…そんなのは嫌ですよね。じゃあ、「捨てる」ってどういうことなんだろうと考えると、やっぱり、捨ててもそれが自分の中にある、っていうことなんじゃないかと。

自分の中にあるものは、すでに自分が経験したことの中で、誰かによって与えられたもので、自分も誰かに、いい影響であるにせよ、悪い影響であるにせよ、何かを与え、それが誰かの中で生きているという感覚のような気がします。

逆にいえば、自分が今、どれだけ、他者とともにいるかということを意識しているかで、それが決まるのかもしれない。

もし、自分だけの力で、自分だけの価値観で、離れていきているとすると、捨てた先に、実は何も残っていないというようなことがあるかもしれないな、と思うんです。

それが、もしかしたら、子育てをしながら感じていることかもしれません。

子どもに依存するか、仕事や趣味に生きがいを見出すか、というようなことでなく、子育てを通じて、子どもに自分の中の何かを与えていくことで、いつ子どもが自立して離れても大丈夫な確信のようなものを持っていれば、自分も新たなチャレンジができるような気がし始めています。

人生100年でしょう…。定年前には何か新しいチャレンジをしたいですよね…。じゃあ、今から準備を始めるべきですよね…。なかなか地域のコミュニティとつながりが持ちにくい時代ですけど、不思議なもので、子育てはいろいろな意味で、自分と地域をつないでくれます。

子どもって本当にすごいなあ。与えているようで、当然、子どもからたくさんのものが与えられているわけです。

というわけで、今のところ「私の未来予想図」は、白紙ですが、なんとなく、こっちの方だぞ、というのは見えてきておりまして、そっちの方向だと進みながら、でもその予想図を平気で書き換えちゃうような人生を、のぞんでいます。

そのためにも、ちょっと先の未来と、現在を、できるだけ、いろいろな人に貢献するように自分を差し出すというか、参加するというか、そんなことを意識してみたいなと思っています。

POLA×はてなブログ特別お題キャンペーン #私の未来予想図

バナー
Sponsored by POLA