今日は自分の家にあった絵本「だじゃれすいぞくかん」と「だじゃれどうぶつえん」です。言葉遊びには最高の絵本です。
「だじゃれすいぞくかん」と「だじゃれどうぶつえん」
今日紹介するのは「だじゃれすいぞくかん」と「だじゃれどうぶつえん」です。
※大きい画像はそれぞれ絵本ナビの作品紹介へのリンクです。
内容はタイトルの通り。
シュールで笑えます。
表紙はそれぞれ「きのう、きょう、アシカ」と「かライオーン」ですね。
絵がすごく大きくて、一言あるだけ。まさにだじゃれ。すいぞくかんの方の1ページ目は、「もういいかい」「マダイだよ」で、となりが「フグおこるんだから」です。
フグおこるんだから!なんていうのがどれだけのだじゃれかわかりませんけど、くだらなくて楽しくないですか?
どうぶつえんの方で、好きなところは、「もうゴリラ」ときて、ページめくると「わっひつじ!」と重ねると、すごいなあと思います。くだらないですけど。
この絵本は、確か姪っ子のために買ったはず…
この絵本は自宅にあったんです。今はもうずいぶんと大きくなった姪っ子がおりまして、小さい頃は結構うちに遊びにきていました。
で、いくつか絵本を買っていたようなんです。彼女たちが選んだのか、私が選んだのか…今となってはわかりませんが、とにかくうちにありました。
そんな絵本が自分の娘にまわってくるなんて、年をとったのか、不思議なものですね。
でも、もし自分が選んでいたなら、たぶん、言葉遊びをさせたかったんだと思います。やっぱり、言葉っておもしろいし、同じような言葉が違う意味になったりして、楽しいですよね。
そもそも「笑い」っていうのは、常識の認識があって、そこからずれるということです。つまり、「笑い」をわかるためには、「常識」の認識が必要。もし、相手を笑わせるなら相手の常識の把握が必要、という、他者理解というか自明性の問い直しというか、ものすごい無意識の他者性の意識化というような高尚な話でして、ここはやはり避けて通れないわけですね、
で、その常識というのは、そもそも言葉の把握である、と…。
なんだか難しい話で申し訳ないですけど、くだらないだじゃれの背後にはものすごい高尚な論理がかくれているわけです。そうです。うけないとだめなんですね。
みんなが知っているだじゃれは、「ずれ」が一般化してしまって、すでに「ずれ」にならないわけですね。だから、違う「ずれ」が必要になる。それは、「ああ、こういうのは普通だな、みんな知ってるな」って思ってるから新たな「ずれ」を探すわけで、それは他者の自明性を把握しているということです。場合によっては、そういう中で、あえて、みんなが使っている、知っているだじゃれをぶち込むことで、わざとつまらないことを言うっていう「ずれ」を狙うケースもありますね。
ほら、高度でしょ?だじゃれはすごいんです。
つまらないだじゃれ、いわゆる「おやじギャグ」は、ここにおいて2種類にわかれます。受けようと思いながら、他者の常識がわからないが故にすべってしまう、つまり、他者の言語を理解していないレベルの低いギャグと、あえて、他者が期待するオヤジ的な「ずれ」を把握し、その期待している「ずれ」を体現して、すべるがゆえに笑いを生む一段上のオヤジギャグです。
このふたつは本当は違うんですね。まあ、「オヤジ」とついている時点で、若者との言語的常識の「ずれ」に気づいていないという揶揄が入っていますけどね。
なんて難しいことはどうでもいいかもしれませんが、そのためにも、言語の音韻の類似性を早くから覚えることは重要なんです。
…というのは、本当ですけど、どうでもよくておもしろいから読んでるだけです。
2歳児はだじゃれがわかるのか???
この本を2歳のときに与えたんですけど、実際にわかっているのか?
まあ、繰り返し読まされたということは、喜んでいたっていうことで、まあ、それはいいことです。
何度か書いてきましたが、そもそも、さかなとどうぶつが出てくればよろこんでくれます。それがシンプルに何かしてる。それだけでも楽しいんですよね。
しかも、読んでいるときに余計なのつけるわけですね。
「おかあさんはフグおこるんだから!」
とかやると、おかあさんが、「おとうさんでしょ!」とかいうので、真似してお母さんに言ってみたりね。
なんだか楽しいです。やっぱり笑いって重要。小さいときから笑いがいっぱいで育つのっていいですね。3歳になったので、そろそろだじゃれっていうのに、気がつくといいなあ、と思います。
そろそろ大丈夫じゃないかなって、また読んでみたいと思います。